「旅館甲子園」 亀清旅館の申込み "Dream Ryokan Project" Kamesei's Application

2012.11.24: 青い目のおもてなし This American’s Omotenashi

Chef武井が頑張っていて、亀清のパンフの表紙にも。

全旅連青年部の企画で来年2月に東京で「旅館甲子園」が開催される。旅館若旦那の宿に対する夢及び従業員のモチベーションとの事で、全国の旅館・ホテルが対象のなっている。

亀清旅館の宿作りが私のライフワークとなってきて、そして我が宿のChef武井の頑張りもあって、申し込んでみた。

申込み文章は長いですが、私のビジョンなので、良かったら下記にてお読みになって下さい。

The All-Japan Ryokan Junior Association will hold a Ryokan Koshien competition in February 2012 in Tokyo. One ryokan from each prefecture will be selected to represent their area, and the top 5 will make their presentation at the Tokyo competition. The criteria is the management vision of the proprietor and how that is conveyed to the employees.

As Kamesei Ryokan has become my life work, and as our chef Takei-san has embraced that vision, I decided to apply. It's all in Japanese, and it's a long read, but my application letter is as below.

旅館甲子園 Dream Ryokan Project

アメリカ生まれの私は大学で日本語を習って、卒業後で長野に一年半生活した。その時に亀清旅館の娘と出会って、実家が温泉宿だと聞いた。温泉が大好きな私には運命の赤い糸が結ばれた。
地元に戻った時にその娘を引っ張って行って、向こうで結婚して11年間生活した。その間は亀清旅館の女将が引退をしたくなったが、跡継ぎがいない為に全部を壊す様な話となった。世界を旅した私にとっては日本の旅館がどれだけ特別か感じて、亀清旅館の昔からの作りが特に大好きだった。アメリカでの人生を捨てて、嫁藩を引っ張ってきて、7年前に青い目の若旦那となりました。
最初は周辺の業者に「あの宿はいつ潰れてもおかしくない」と言われたり、近所で「向こうの人が来たか?もう、終わりだね」との噂が拡がり、辛かった。その頃は謝金が年間売り上げの2倍だった。当時のお風呂は大浴場内湯の二つだけだった。露天風呂を作りたかったけど、お金がなかった。売り上げを伸ばすために客数増加用の宣伝予算がない。とにかくお金がなかった。

ある日、ある旅館青年部のOBが「露天風呂の造り方を教えてやるし、道具を貸してやるし、作れ!」と言ってくれた。ボロボロで恥ずかしいプールだった所で地元の川石を使って、戸倉上山田温泉の歴史を記念する「100年風呂」を自分の手で造った。お客さんが温泉に入りながら星の光も浴びれる様になった。あれからもう二つの露天風呂を造って、合計3つが出来た。
もう一人のOBが温泉街の近くの夜景スポットを見せてくれて、地元の伝説を教えてくれた。「姨捨夜景・語り部ツアー」が生まれて、未だに継続してる。最初は女将社長に怒られた。「夕食後は若旦那がお皿洗いの手伝いをするんだよ」と。「社長、お客さんで綺麗なお皿で喜ぶアホがいない。夜のツアーのお陰でお客さんは旅の良い思い出が出来ているよ!」と喧嘩した。その良い思い出のお陰でお客さんの喜びを得て、口コミに反映して、それが広げて、お客さんが増えてきた。
私のポリシーは信州の温泉宿としてお客様の一人一人に何かプラスαのおもてなしを提供することである。手作りの露天風呂、姨捨の夜景と伝説、デザートでアメリカ式アレンジのアイスをお子さん達に提供、駅からの送迎の途中で千曲川を眺める景色ポイントに寄る、長野産のそば粉入り母のレシピの「シアトルクッキー」を焼いてお茶がしとして出す、近くのお寺さんで朝5時座禅や地元のお神楽の練習に連れて行く(私は獅子笛をやっている)、等など、この青い目の若旦那なりのおもてなしを提供している。
設備や建物が古くて、少しずつ改造している。客室を改造する中で長野県に特化したテーマで改造している。12部屋しかないけど、現在の客室の名前が「松風」とか「末広」、つまり、沖縄でも北海道でもどこであってもおかしくない名前である。それは許せない。長野県の旅館に来る方は長野県と触れ合いたがっていると思う。
周りの町で昔は絹の生産が多かったし、近くの上田市は日本三大紬の上田紬で有名です。「松風」の客室の為に蚕棚でコーヒーテーブルを作って、自ら上田の紬工房に行き、100年前の織機でタペストリーを作って壁の書けて、床の間で糸巻の機会を飾って、いずれかは「紬」と言う名前に変えたい。
私が長野県に来てから毎年の10月の楽しみの一つはりんごである。りんごの中でも、昔からの紅玉が特に好き。畑で採りたてのままで食べたらその甘酸っぱさの刺激は忘れられない。「末広」の庭を作りなおした時に庭師に紅玉の木を植えてもらって、部屋のベランダの為にりんごの木でテーブルを作って、この冬に部屋の水回りを直す時にりんごのステインドグラスを入れる予定していて、この部屋名は「紅玉」にしたい。
とにかく、手作りの露天風呂や青い目のおもてなしだけではなくて宿の客室からも長野なりの感動をお客様一人一人に与えたい。

板長はある日、相談しに来た。「タイラーさん、新しい一品を考えているけど、AかBのどちらが良いか、悩んでいる。Aの方が無難だけど」と。「板前さん、私は無難な人生をアメリカで捨てて来た者。チャレンジをしましょうよ」と私が答えた。それからは板長の元々工夫された料理が少しずつ進化して来た。代表的な一品が板長の「びっくり茶碗蒸し」である。少し洋風で、上にバルサミコ酢をかけている感動的な一品となった。
お料理に関して、私の役割は長野県旅館青年部とか地元の農家の付き合いから得た情報を板長に提供する事である。冬は地元のお客が多くて、海の物が喜ばれる。しかし、海の無い長野の旅館で蟹づくし料理を出すのはどうかと思う。板長と議論したので出来るだけ地元の食材を使うようになってきた。お客様は県内からでも県外からでも、海外からでも、とにかく長野の食材を板長のアイディアで出している。1つの例は県青年部が押しているまぁーずソースを好評で取り組んでいる。もう1つは地元のリンゴ農家との交流会で百者のおばさんが「どうして戸倉上山田の旅館に泊まる時にデザートでみかんが出るかい?」と質問した。板長は刺激を受けて、あれから冬は手製のアップルパイを焼く様になった。尚且つ、信州味噌の隠し味で工夫して。
私が来てからの7年間で板長の創作料理は花が咲いた様にアイディアが取り組まれて、その上に長野県産の山の幸を更に生かしてきた。とにかく、板長は私と同意で、手をかけてお客さんに感動を与える様に日々努力してくれている。

露天風呂も出来、プラスαの信州らしいおもてなしでお客様一人一人に感動を与えているお陰で好評の口コミが広げて、客人数が増えてきた。謝金を返し続けて、今は逆転で年間売り上げが謝金の2倍になった。
板長の料理の反応は当たり外れが激しい。特にそのびっくり茶碗が問題を起こしている。最近の口コミで「食事も変に手を加えすぎていて、いまいちでした。洋風の茶碗蒸しもバルサミコ酢が乗せてあり、これが苦手な人も多い。」や「 バルサミコ酢のかかった茶碗蒸しは、無理でほとんど残していました。」と怒られながら、「夕食は工夫された手作り感のあるメニューで特にバルサミコ酢の茶わん蒸しは絶品でした。これだけ食べにまた伺いたいくらいです。」と大満足して頂いたお客さんもいらっしゃる訳。私の口コミの答えかったが辛いせいか、一般的な料理を食べたい保守的な方がやっと他に泊まる様になったみたい。最近のお客さんは板長の腕を逆に期待してきていて、喜んで頂いている。
そして、地元の食材の活かし方が当温泉の中で代表的となって、JALの機内雑誌にも紹介された。
宿作りは若旦那として当然、一生懸命である。しかしながら、町おこしや長野県への貢献もしている。この戸倉上山田温泉のハイキング・サイクリングマップや英語のグルメガイド・散歩地図を作ったり、レンタサイクルを始まったり、母の日のコサージュ作り、夏の射的大会、イースターやハロウィーンなど沢山のイベントの先頭に立ったり、まあ、小さい事ばかりですがそれこそ温泉街にお越しになる方々にできる限りで感動を与える様に頑張っている。
県レベルでは公式外国語サイトのブログを立ち上げたり、県青年部のインバウンド委員会を担当して全国大会@沖縄でOB賞を受けたとの活動もしている。
亀清旅館での宿作りが私のライフワークになった。板長とスタッフの皆と手を組んでこれからも長野の代表が出来る温泉宿になる夢の実現を目指している。アメリカなりのおもてなしも少しずつ取り組みたい。その大前提はお客さんの一人一人が喜んで頂ける様にまず努力をする事。






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